横井小楠の幕末

幕末の歴史 幕府への登用 士道忘却事件 国是七条
龍馬の訪問 参勤交代制廃止 「攘夷三策」
国是七条(小楠)から船中八策(龍馬)・五箇条の御誓文(由利)へ

幕府への登用

時代の背景

欧米列強のアジア進出で、インドの植民地化、中国のアヘン戦争での敗北、アメリカ・ロシア・イギリス艦隊の日本への開国の圧力、と続く中、今の、徳川幕府を守ろうとする派と、朝廷を中心に列強と対峙していこうとする尊王攘夷派の対立が激しくなる。

井伊直弼を中心とする幕府維持派は、将軍の世継ぎで勝利を収めるが、列強の圧倒的な軍事力を背景とした圧力で、独断で日米・日露・日英和親条約を結ばざるを得なくなる。そして、大名松平春嶽・一橋慶喜らは謹慎処分に、吉田松陰・橋本左内らが死罪となる安政の大獄で、反対派の弾圧を行う。この弾圧は、大きな反発を引き起こし、井伊直弼は桜田門で暗殺される。

この機会に、薩摩藩島津久光ら尊王攘夷派は、朝廷とむすび、松平春嶽・一橋慶喜の登用を幕府に求める。幕府は謹慎処分を解いて、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職に任命する。

松平春嶽のブレーンとして

小楠は、松平春嶽に請われて、越前藩の藩政の改革にあたっていたが、春嶽が政治総裁職への就任を要請され、その是非を検討するために、江戸へ招かれた。春嶽に政事総裁職へ就くことをすすめた小楠は、そのまま、江戸で政治総裁職松平春嶽のブレーンとなる。

新政権の基本方針としての「国是七条」

欧米の圧力の中で、井伊直弼を中心とした勢力は、それぞれの国と和親条約を結ばざるを得なかった。かわる勢力として、国の中心に就いた、慶喜・春嶽政権の新たな方針として出されたのが。「国是七条」である

「国是七条」の骨格は国が一体となった「公共の政」と「海軍の増強」。

小楠が建議した「国是七条」の大きな柱は、国が一体となった「公共の政」と「海軍の増強」である。公武合体派、尊王攘夷派などが入り乱れ、主導権争いや暗殺が横行する中で、欧米列強と対等に付き合っていくための根本的な方針としてして、「国是七条」を小楠は示した。

「国是七条」は、この後、坂本竜馬の「船中八策」、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として引き継がれて、明治政府の基本方針となっていく。

徳川慶喜の小楠評価

「昨夜、横井平四郎に対面せしに、非常の人傑にて、はなはだ感服せり。談話中、ずいぶん至難をおぼゆる事柄に、尾ひれをつけて問うこころむるに、いささかも渋滞することなく返答せしめが、いづれも拙者どもの思へるところよりは、数層立ち上りたる意見なりし。」

徳川慶喜による幕府への招聘

老中板倉勝静、御側御用人大久保一翁、大目付岡部長常の勧めにより、慶喜は、春獄に対し、「国是七条」を実現していくために、小楠を幕府の「奥詰め」として登用したい、との申し出を行う。

しかし、小楠は結局これを辞退した。

その後、幕府は、肥後藩に対して、藩から一時預かるという形で登用したいとの申し出を行う。小楠は一旦は出仕を決意するが、肥後藩の反対を考慮してか、結局は実現しなかった。