横井小楠の幕末

幕末の歴史 幕府への登用 士道忘却事件 国是七条
龍馬の訪問 参勤交代制廃止 「攘夷三策」
国是七条(小楠)から船中八策(龍馬)・五箇条の御誓文(由利)へ

「攘夷三策」

1.外圧に屈して、その場のがれの条約をむすび、勅命にそむいて開港をなし、上は、天皇の宸襟をなやまし、下は、万民の憤激をかった、ペリー来朝いらいの幕府役人の事蹟をしらべたうえ、将軍はすみやかに上洛して、朝廷に誠意を披瀝し、尊王の実をしめすべきである。

2.尊王の実を示し、関係者を処罰したのち、在留の各国使臣を江戸城に招いて、勅使・将軍以下列候連座のうえで、現行の条約を破棄せねばならぬ理由を幕府の役人に説明させ、勅許のない諸港はすみやかに引き払うように諭し、おのおの、その本国に使節をだして、右の趣旨を伝えるように申し聞かせ、そのうえで早速、適当の人物を日本の特使として各国に派遣し、あらためて開国の旨を通告する。

3.近畿の沿岸や沿道には、戦争の備えをととのえる。

圭室諦成「横井小楠」より

攘夷三策の評価

「国是七条」を基に、国内の改革をすすめた徳川慶喜・松平春嶽政権にとって最大の難関は、井伊直弼時代に調印した、諸外国との条約の扱いと、京都における尊王攘夷運動をバックにした、朝廷による攘夷の強い要求の扱いであった。

松平春嶽・横井小楠は、井伊直弼政権が自らの延命のために行った条約を、一旦破棄し、あらためて、公卿・大名の合意の元に条約を締結し、開国を行うことを提案し、幕府内もまとめた。これに対し、徳川慶喜は、国内事情はどうであれ、一旦締結した条約を破棄するなど、諸外国には通用しない考えだ、として反対し、自らが、朝廷に「開国」を説得することを主張した。

松平春嶽・横井小楠は、慶喜の原則を持った、強い主張に感動して同意する。しかし、朝廷は、勅使を派遣し、幕府に、攘夷の決意と時期の明確化を求め来た。幕府は、抵抗を示すが、最後は朝廷の要求に屈し、徳川慶喜が、「開国」を朝廷に主張する間もなく、攘夷を約束し、将軍の上洛を決める事となった。

この頃、横井小楠は、「攘夷三策」を建議する。

これは、開国論者横井小楠が、尊王攘夷運動が激化するなかで、ギリギリの妥協をしたものとして評価されている。横井小楠は、「公武合体」だ「尊王攘夷」だ、「開国」だ「閉鎖」だ、と主張が入りみだれ、異なった考えの相手を倒すことにエネルギーが費やされた、この時代に、次から次へと国のとるべき方針を打ち出していく。小楠が打ち出す方針には、基本的な考えがあった。それは、@政治を行うには「徳」を持つて行うべきである。A「私の政」ではなく「公共の政治」でなくてはならない。の2点であった。小楠の方針は、その時その時の勢力に流れる事なく、この2の考えから、今、何をなすべきかを示していった。

小楠は、「公武合体」だ、「尊王攘夷」だ、「開国」だ、「閉鎖」だ、と主張している人たちと、この2つの考えをもとに議論を行えば、一つの方向へ、考えをまとめて行く自信を持って、「攘夷三策」を建議したものと思われる。

攘夷の動き
1853
(嘉永6)
ペリー浦賀へ。
1854
(安政元)
日米和親条約調印。朝廷よりは事後承認をもらう。
1858
(安政5)
日米修好条約調印。朝廷には事前に勅許を願い出るが、勅許をもらわないまま調印。
この事に対し、徳川慶喜、松平春嶽ら抗議に登城、謹慎処分をうける。
安政の大獄始まる。
1860
(万延元)
孝明天皇の妹和宮と、将軍家茂との婚儀。朝廷より「攘夷」の条件をつけられる。
アメリカ公使館のヒュースケン暗殺。
1861
(文久元)
ロシア軍艦、対馬占拠。
英国公使館襲撃、島津久光、上京。
尊王攘夷派も京へ集結。
寺田屋事件(薩摩の過激尊攘派を襲われる)。
1862
(文久2)
島津久光、江戸へ。
徳川慶喜、将軍後見職。松平春嶽、政事総裁職に。
横井小楠、「国是七条」建議。
島津久光、江戸より京へ向かう途中、行列をじゃましたとかで英人殺傷(生麦事件)。
京都は、尊王攘夷派が「天誅」(テロ)を繰りかえす
松平春嶽・横井小楠らは、条約を一旦破棄し、公卿・諸大名も含めて合議の上で条約締結・開国を図る。
徳川慶喜は、一旦締結した条約を破棄するのは外国が受け入れない。自身が「開国論」を朝廷に申し出ると主張。
松平春嶽・横井小楠らも、慶喜の決意に賛同する。
一方、朝廷は、幕府に勅使を派遣、攘夷の期限を迫る。
幕府は、朝廷の攘夷の要求を受け入れ、将軍の上京を決める。
慶喜の「開国論」を、朝廷に申し出は、実行される情況ではなくなった。
横井小楠、「攘夷三策」を建議。
徳川慶喜、京へ。
横井小楠、いわゆる「士道忘却事件」。肥後藩は小楠を肥後藩に帰すよう要求。
松平春嶽、京へ、小楠は、「士道忘却事件」のため同行できず。
英国公使館、焼き討ち事件。
1863
(文久3)
将軍家茂、京都へ。
幕府は、種種の駆け引きにもかかわらず、朝廷より、攘夷を期限を決めて実行する事を約束させられる。
英国は、生麦事件の解決(賠償金の支払)を要求
長州藩、イギリス船、オランダ船を襲撃。
英艦、鹿児島を襲撃(薩英戦争)。
横井小楠「士道忘却事件」判決。知行召し上げ、士籍剥奪。
1864
(元治元)
英・米・仏・蘭が下関を砲撃。
1865
(慶応元)
英・米・仏・蘭軍、大阪湾入港、条約勅許・兵庫開港迫る。
坂本龍馬、薩摩からの帰途、四時軒を訪問(薩長連合の秘策は隠す)。
1866
(慶応2)
薩長連合成る
甥横井佐平太・大平、長崎から米国へ。
徳川慶喜、将軍に。
1867
(慶応3)
徳川慶喜、英・米・仏・蘭公使を引見
大政奉還