横井小楠の幕末

幕末の歴史 幕府への登用 士道忘却事件 国是七条
龍馬の訪問 参勤交代制廃止 「攘夷三策」
国是七条(小楠)から船中八策(龍馬)・五箇条の御誓文(由利)へ

坂本龍馬の四時軒訪問

3回の四時軒訪問

坂本龍馬は、3回四時軒を訪問している。

1回目は、元治元年(1864)2月。長崎へ赴いた勝海舟の使いで訪問。海軍塾の情報を伝達、金品を送っている。

2回目は、元治元年(1864)4月。勝海舟は、長崎の帰り熊本を訪れ、龍馬を小楠の元に遣わしている。この時、二人の甥横井左平太・太平そして、肥後藩岩尾内蔵の3名を、神戸操練所塾生として弟子入りさせている。

3回目は、慶応元年(1865)5月。薩摩からの帰りに訪問。酒を飲んで勝海舟・西郷隆盛らの人物論に話が及び、小楠が「俺はどうだ」と尋ねると、龍馬は「先生は2階におられて、きれいな女どもに酌をさせて、西郷や大久保が行う芝居を見物するがよいでしょう。そして、大久保どもが行き詰まったら、ちっとばかし指図をしてやるとよございます。」と答えた。

小楠と龍馬の議論

この時、小楠と龍馬は路線論争を行い訣別をしている。

龍馬は、勝海舟とともに、すでに幕府を見限り、薩摩と長州を中心に討幕を行い、政権の交代を目指していた。これに対し小楠は、薩摩・肥後・越前を中心として、朝廷・幕府・雄藩を一体とした、挙国一致の政権を考えていた。この意見の対立は、解消されないまま龍馬は、四時軒を後にする。龍馬は、朝廷の命を受け長州と対立していた薩摩に行き、西郷隆盛・大久保利通らと長州との和解、そして討幕の同盟を働きかけての帰りの、四時軒訪問であった。

勝海舟の幕府への見限り

下関での長州の敗退後、朝廷では、薩摩を中心とした勢力が、長州を中心とした勢力を抑え実権を握る。そして、幕府に、長州征伐を要求し、元治元年(1864)年、第1次長州征伐が行われる。

幕府保守派は、勢いを取り戻し、文久2年、小楠の「国是七条」の建議によって始まった参勤交代の廃止を含めた改革を、元に戻す事などを決めていく。勝海舟は、元治元年(1864)年9月、西郷隆盛に会い、もはやみずからの改革の力もない幕府を倒し、小楠・龍馬らと議論してきた「公の政」共和政治を始めなくてはならない事を説く。

小楠と海舟・龍馬の意識のずれ

文久2年(1862)、幕府の中にあって改革を目指した時から2年の歳月が流れていた。しかも、小楠は、肥後藩より「士道忘却事件」による処分を受け、熊本市郊外沼山津「四時軒」にて生活をしていた1浪人であった。その後も、幕府の内と外で活動する中で、幕府の限界を悟った海舟・龍馬との間で意識のずれがおこるのは当然の事ではあった。

龍馬の思いと別れ

龍馬にとって小楠は、外国船が日本に押し寄せてくる時代に、人々が幸せに暮らせる国をどのように作っていくか考えていく師であった。幕府の限界を見た龍馬は、薩摩・長州を中心に幕府を倒すことが、いま最も重要な事であった。そして、その後に作る新しい体制では、小楠の思想が必要になると信じていた。龍馬は、「先生は今はしんぼうの時です。新しい政府が出来る時、先生の出番はきますから、その時会いましょう」と四時軒を後にした。

時は慶応元年(1865)5月である。

慶喜は慶応3年(1867)10月に大政を奉還。

龍馬は慶応3年(1867)11月に暗殺される。

小楠は慶応3年(1867)12月に朝廷より新政府へ招命される。

小楠は

その後、小楠は、勝海舟・松平春嶽らとの書簡のやり取りの中で、討幕に理解を示していく。しかし、小楠は、討幕から内戦へ進むことを最も恐れていた。幕府には、フランスが、薩摩には、イギリスが、支援を行っていた。内戦となれば、これらの国の代理戦争となり、インドや清国のように、外国に支配される懸念があった。それだけは避けねばならなかった。なによりも、国の独立が保たれる事が第一義であった。

この事を、勝海舟・松平春嶽そして肥後藩に訴えていく。

明治元年(1868)3月、大政奉還後、江戸へ攻めてきた西郷隆盛と、旧徳川幕府を代表した勝海舟は、会談を行い、徳川家の今後の扱いを定め、江戸城の無血開城を行つた。これにより、小楠が恐れた最悪のシナリオ、討幕から内戦へは、小楠を師と仰ぐ勝海舟によって回避された。