横井小楠の幕末

幕末の歴史 幕府への登用 士道忘却事件 国是七条
龍馬の訪問 参勤交代制廃止 「攘夷三策」
国是七条(小楠)から船中八策(龍馬)・五箇条の御誓文(由利)へ

参勤交代制の廃止

参勤交代制の始まり

参勤交代制は、3代将軍家光の時に制度化された。

武家諸法度第2条(1625)
「大名・小名、在江戸交代、相定むるところなり。毎年夏4月中参勤いたすべし。従者の員数近来はなはだ多く、且つ国郡の費、且つ人民の労なり。向後、其相応を以って之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従うこと。」

「参勤」は、各大名が将軍への服属儀礼として、豊臣の時代に始まっている。豊臣が滅び、徳川の時代へ移ると、各大名は、競って江戸へ参勤を行うようになって行く。当初は、毎年参勤を行う大名も いたが、財政的負担などから、徐々に隔年参勤を行うようになっていた。武家諸法度は、この事実を明文化したものである。

これ以降、西国の大名と東国の大名が、隔年毎に、江戸に参勤し詰めることとなる。

大名妻子の江戸詰め。

参勤交代が、隔年に落ち着くころ、大名の妻子も江戸へ来るように、幕府より内々に各大名に伝えられ、各大名も妻子を江戸に詰めさせることとなる。各大名にとっては、徳川幕府への従属を示すと共に、江戸屋敷が情報収集の拠点となっていく。

幕末までこの制度も続くこととなる。

参勤交代制の終わり

参勤交代制は、徳川幕府を支える制度であった。鎖国時代には、徳川幕府を守るという事では意義があったが、ペルーの浦賀来航など、諸外国の艦船が国の廻りに現れ出すと、各藩にとって海防の必要等から、参勤交代に費やす、莫大な費用の負担が、重荷となり、改革の声が出始める。このタイミングに、小楠は慶喜・春嶽政権の発足にあたり、「国是七条」で、参勤交代の廃止を建議した。

当初は、幕府の根幹を成す制度の改革には、反対論が根強かったが、小楠は、大目付岡部長常、徳川慶喜らを説得し、制度の廃止にこぎつける。

参勤交代制廃止の評価。

参勤交代制の廃止は、各大名が参勤を行わないとしても、もはや幕府には各大名に強制する力もない。このために、先手を打って制度を廃止したとの評価がなされた。幕府内部もそのような考えで、廃止に賛成している人が多かった。

しかし、小楠にとっては、徳川家のための「私」の政治から「公共の政」へ制度を改めていくための、大きな第一歩であった。

イギリス公使「オールコック」の評価

「支配者と被支配者との根本的な関係には、大きな変化が生じつつある。全封建勢力が大きくゆり動かされ、その政治的・社会的組織は、ヨーロッパとの突然な接触の衝撃によって崩壊しつつある。(中略)大名とその家族が首都から出発したことによって示される変化は、もっとも大きく、かつ根本的な性格のものである。一言でいうならば、それは支配階級と大君との、妥協と協定によっておこされた革命である。(岩波文庫「大君の都」(下))より