横井小楠の幕末

幕末の歴史 幕府への登用 士道忘却事件 国是七条
龍馬の訪問 参勤交代制廃止 「攘夷三策」
国是七条(小楠)から船中八策(龍馬)・五箇条の御誓文(由利)へ

士道忘却事件

小楠襲われる

文久2年(1862)12月19日、肥後藩江戸留守居役、吉田平之助の別宅2階で、横井小楠、吉田平之助、都筑四郎、谷内蔵充の4名は、小楠が、松平春嶽のお供で、京へ登る直前に酒宴を開いていた。谷が、急用で帰った後、酒宴が盛り上がっている最中に、突然覆面姿の3人組みが、小楠らを襲った。小楠は、階段を駆け下り、越前藩へ賭け戻り、大小を受け取り、越前藩士と共に引き返したが、吉田と都筑は、傷を負い吉田は、2ヶ月後にその傷がもとで亡くなった。

肥後藩の態度

肥後藩では、仲間を見捨てて逃げた小楠に、「士道忘却」として、非難が集中した。直ちに、身柄を越前藩より引き取り、熊本へ送還し、厳罰に処するつもりであったが、松平春嶽が、必死の弁護を行い、越前藩で身柄を預かることとし、京へは、同行せずに福井へ帰すこととなった。

小楠に対する処分

その後、越前藩の、開国派と、穏健派の論争の中で、穏健派が実権を握り、由利公正をはじめ、小楠の仲間が処分を受けることとなり、小楠は、文久3年(1863)8月に福井を辞し、熊本へ帰る事となった。熊本へ帰る小楠に対し、松平春嶽をはじめ、多くの人々から肥後藩に対しての嘆願が行われた。しかし、肥後藩では、藩の決まりを無視することは出来ないとして、文久3年(1863)12月、士籍剥奪・知行召し上げの処分を受けることとなった。

慶応3年(1866)年12月、王政復古後の明治新政府より、召命があるまでの3年間を、熊本市郊外沼山津「四時軒」にて、1浪人として生活することとなった。

犯人は

その後、犯人は、肥後勤王党の流れをくむ、肥後藩脱藩浪士堤松左衛門、肥後藩邸詰め足軽黒瀬市郎助と安田喜助の3名と判明した。小楠を、「幕府を開国に導こうとしている売国の奴」として、他藩の浪士に殺される前に、自分たちの手で抹殺しようとして襲ったのであった。そのころ、小楠は、長州を中心とした尊王攘夷派から、「開国論者」として命を狙われていた。木戸孝允は、越前藩に、「小楠を松平春嶽の参謀にしておくのはよくない、との噂が流れている、用心するよう」と、忠告を行っている。

その後の動き(攘夷の約束)

朝廷の攘夷決行と、将軍上洛の強い要請に対し、慶喜・春嶽政権は、京に有力大名を集めて大いに議論し、方針を定めようと目論み、京へ赴いたが、そこは、すでに尊王攘夷の天誅(テロ)が横行し、長州を中心とした尊王攘夷派が、朝廷を巻き込み圧倒的に優位な情勢であった。

その後、将軍家茂が上洛した幕府は、朝廷とさまざまな駆け引きを行うが、理論的支柱の小楠を欠いた慶喜・春嶽政権は、尊王攘夷派をバックにした朝廷の強い要求に屈し、文久3年(1863)5月10日、攘夷を実行すると約束をさせられる。

その後の動き(長州の攘夷決行・薩英戦争)

文久3年(1863)5月10日に、攘夷実行を約束させられた幕府ではあったが、その日、攘夷を実行したのは長州藩であった。長州藩は、関門海峡を通るアメリカ船に砲撃を行った。それからもフランス艦、カランダ艦に対して砲撃を行った。しかし、6月には、アメリカ・フランスの攻撃を受け、外国の圧倒的な軍事力の前に敗北し、自らの力を知ることとなる。

一方薩摩では、文久2年(1862)の生麦事件に対して、イギリスからの賠償要求を拒否したことで、文久3年(1863)7月、薩摩湾でイギリス艦隊の砲撃を受け、交戦するが敗北し、賠償金の支払を約束させられる。

小楠の思想を危険視し暗殺を試みた尊王攘夷派は、長州・薩摩が外国と直接戦うことにより、外国とは国力に差があり、攘夷など出来ないことを知る事となる。

その後の動き(討幕へ)

外国との国力の差を知った長州・薩摩は、その後は、攘夷から討幕・新しい体制へと流れを変えていく。

坂本竜馬・勝海舟・西郷隆盛・高杉晋作などが、表舞台で活躍する時代へと移っていく。

そのころ、彼らに世界的視野での理論的影響を与えていた横井小楠は、肥後藩の「武士道にあるまじき行為」を理由として処分を受け、熊本市郊外沼山津「四時軒」にて、1浪人として生活を送っていた。