横井小楠ゆかりの地

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生誕の地(熊本中央高校)

熊本市内坪井4−8バス壷井橋下車   地図

小楠は、熊本市内坪井の下層藩士の屋敷町(現在熊本中央校の敷地内)で生まれた。父は、150石の肥後藩士、横井時直である。

小楠が産湯を使ったといわれている井戸が、復元されている。

小楠は、腕白で近所の子供を泣かしては、親に苦情があった。そこで、母親がこらしめのため押し入れに入れると、しばらくして、「母様、母様、大便だ、大便だ」と叫ぶので押し入れをあけると、サツト外へ逃げていった。という子供であった。


直ぐ近くには、夏目漱石旧居(第5の家)がある。漱石は、明治29年(1896)4月、29歳のとき、第五高等学校(現熊本大学)の教授として熊本に赴任。

その後、4年3ヶ月にわたって熊本に滞在、熊本での体験から、「草枕」「二百十日」などを著している。

漱石は、引っ越し魔で、6回も転居している。第5番目の内坪井の旧居は、「漱石記念館」となって、漱石の熊本での文学活動や生活が紹介されている。漱石夫妻は、この5番目の旧居が、「一番いい家であった」と語っている。長女筆子が産湯を使った井戸が、庭内に残っている。


勤王党の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の旧居跡も、近くにある。

宮部鼎蔵は、熊本県の御船町生まれで、尊皇攘夷派の代表的な人物。元治元年(1864)、池田屋で会合中に、新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する。

吉田松陰と知り合い、東北旅行にも同行している。

小楠が、萩の松陰に会いに行くときは、紹介状を書いている。この時は、松陰が留守で会えていない。嘉永六年(1853)、松陰は、宮部鼎蔵、横井小楠に会いに熊本へ来ている。


細川藩の終わりの時代の偉人が横井小楠であれば、細川家が熊本の藩主となったときの偉人が宮本武蔵。

武蔵は、寛永17年(1640)、細川家の客分として熊本へ、その後、晩年の5年を熊本で過ごす。

武蔵は、熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」にこもって、「五輪書」を書いている。

小楠の生誕地から、横井小楠と明治の群像の銅像がある高橋公園まで、坪井川沿いを歩くと、武蔵の旧居跡がある。その小高いところに、NHK会館があり、その会館の東側に、武蔵が使用したと伝えられる井戸がある。